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あたふたキューバ訪問記6

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あたふたキューバ訪問記6
(1月10日、ゲバラ霊廟)
 サンタ・クララに何故「ゲバラ霊廟」があるのだろう。ゲバラは1967年にボリビアで、ボリビア政府軍との戦闘で殺された。没後20年の1987年を記念して、ゲバラの銅像と同じ戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて、38の石墓を安置する霊廟を革命戦争勝利の突破口となったサンタ・クララに、カストロらによって建立されたのだ。その後、1997年にボリビアでゲバラの遺骨が発見され、この霊廟に収められた。いまでは、ヨーロッパからの観光客がバスを連ねてやってきている。
 ゲバラの霊廟を見上げてみると、サンタ・クララの戦闘(1958年12月28日~29日)を指導したゲバラの銅像がそびえている。その下の石碑には、ゲバラの言葉が刻印されていた。そこにゲバラのサイン「チェ」があるのだが、一字剥がれて無くなっていた。それくらい修復すればいいのに、キューバ人は、些細なことには気にしない性格のようであった。
 記念碑の下に、霊廟とゲバラ博物館が並んであった。大勢のヨーロッパ人に混じって、順番に霊廟内に入った。38の石墓が壁の中に嵌め込まれていた。ゲバラの石墓も、特別扱いされたりせず静かに収まっていた。何故か厳粛な気分になったのである。
 その隣の博物館には、ゲバラの幼少期から死ぬまでの経過を写真と遺品で展示してあった。あの有名な「カストロへの手紙」もあった。ゲバラは、何とも多感で正義感の溢れた青年であったことがうかがえる。この博物館からは、「キューバ革命の初心ーー平等な社会の建設」というものを、いつまでも持ち続けようとするカストロらの決意が察せられたのであった。
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転覆させた装甲列車をそのまま展示してある。

 サンタ・クララのもう1つの見所は、「トレン・ブリンダード記念碑」である。1958年12月29日、ゲバラの指揮する革命軍はここでバディスタ政権の装甲車(ハバナを占拠したカストロを攻撃すべく、正規軍と武器弾薬を満載していた)を襲撃し、多くの武器弾薬を手に入れたのだ。バティスタは、サンタ・クララでの敗北を知り亡命を決意。国の財産を運べるだけ運んで家族と共にアメリカに逃げた(1959年1月1日)のだ。こうして、サンタ・クララは革命勝利のキッカケの場所となったのである。
 その襲撃場所に、線路を脱線させたブルトーザーや横転した装甲車・列車と共にモニュメントが展示されていた。場所は街中のごく普通の道路わきで、私たちが見学していると通りがかりのオヤジが声をかけてきた。残念ながらスペイン語はまったく分らなかった。
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あたふたキューバ訪問記5

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あたふたキューバ訪問記5
(1月10日、サンタ・クララ行き)
 本日は、ハバナから257㌔離れた、キューバ中部にあるサンタ・クララに行く。見所はゲバラの霊廟である。早朝から、ガイドと運転手つきで車で出発する。途中、高速道路を走っていくと云っていたが、一般道路との区別も分らないまま高速道路に進入していた。
 キューバの高速道路は、革命前から建設が始まっていて、途中の中断はあったが50年かけて完成したのだそうだ。当初は有料であったが、すぐに無料となった。高速道路といっても、ガソリンの入手が困難なキューバでは、車の数が多くない。馬車も通れば人も歩いているのだ。その人であるが、至る所でヒッチハイクをするのだ。キューバ人は通勤にバスを使うが、そのバスは「来るか来ないか」ほとんど分らない状態である。そこで、ヒッチハイクをしながら通勤することとなる。それもナンバープレートの色で、「政府関係車」か(80%)か民間車(20%)が判るので、政府関係車は義務としてヒッチハイクをさせなければならないのである。所によっては警察官が出て次々に人を乗せているが、ほとんどの車は自主的に人々を乗せている風景が見られた。そんなことは「当たり前」のことなのであった。
ゲバラ廟の前にあるモニュメント
ゲバラ廟の前にある彼と戦った同志たちのモニュメント
 自分の走っているのが高速道路だと判るのは、信号や横断歩道ないことからであった。無料であるから出入りはまったく自由で、どこにでも出入りすることができる。その高速道路の真中で奇妙なものを見た。1つは、大きな刀のようなもので雑草を刈っている人のことだ。ガイドに「あれは何」と尋ねると、「囚人が雑草を刈っているのだ」という。しかし、周りに彼を見張る人物はいないのだ。ガイドいわく、「キューバ人は農業と建設業で働くのを嫌う」という。なぜなら、安い賃金で重労働だからだ。そのため、囚人にこうした労働が割り当てられているのだ。それでは好きな職業は何かと尋ねると、「チップを貰える観光業」と答えた。成程、正規の安い賃金の他にチップが手に入るのだから、やりたくなるのも無理はない。
 ところで、キューバで多い犯罪について聞いてみた。「空き巣と職場での横領」であった。とくに職場では、小物が度々盗まれる。キューバでは、殺人などの重犯罪は少ない。それは、民間人の銃所持は禁止されているからとのことであった。ハバナに多くいる警察官でも、拳銃を持っている人は少なかった。持っていても、小型拳銃で目につかなかった。ガイドに、持っている人と持っていない人の区別を聞くと、「階級の差」とのことだった。たまに起こる殺人事件は、ラム酒を飲んで喧嘩になって「殴り殺し」て起きるくらいなのだそうだ。昨年のインドでは、空港では軍隊が、街中では銀行の入口で警備員が銃を抱えていて怖いくらいであった。インド人のガイドは、「日本では銀行の警備をしないのか」と驚かれてしまったほど、我々との常識が違っていた。それに比べると、キューバは安全に関しては日本と同じ感覚である。むしろ、子供でもヒッチハイクが安心して出来るところなど、日本以上である。
 もう1つ、高速道路の真中に立って農民が自宅で作ったチーズ等を売っていることであった。最初は、何をしているのか分らなかった。もちろん、社会主義国であるキューバでは、無許可での農産物の売買は違法である。彼らは小遣い稼ぎでやっているのだ。警官のパトロールがあると、一目散に逃げていくのだ。たしかに、3時間以上かかったサンタ・クララ行きの間に、パトロールを何度か見かけることがあった。
 こうして、サンタ・クララの「ゲバラ霊廟」に到着したのであった。

あたふたキューバ訪問記4

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あたふたキューバ訪問記4
(1月9日深夜、キャバレー・トロピカーナ)
 今日の深夜(21:00~24:00)は、世界三大ショーの1つというキャバレー・トロピカーナでのキューバ音楽とダンス・ショーである。ここの入場料は高い、日本円にすると9000円程。写真撮影には別途500円が徴収される。さて、ガイドと共に入場しようとしてハプニングが発生。高級ホテルを通り抜けて野外にる舞台に行くため、短パン・Tシャツでの入場を拒否されたのだ。夏でもYシャツ姿の私はパスしたが、K氏は着替えをする羽目となって慌ててタクシーでホテルを往復したのであった。

情熱的なトロピカルショー

 真っ暗な野外に出ると、目の前に大きな中央舞台があった。そればかりか、舞台の上にも小さな空中舞台がある。左右にも、上下に舞台が設えてあるという大掛かりものであった。収容人員は2000人とのことで、当日はヨーロッパ人を中心にほぼ満席状態である。ワンドリンクとして出たラム酒1本を開けて飲んでみると、ブランディーのような芳醇な味がした。ラム酒は、サトウキビで造った40度もあるキューバの特産品である。キューバ人の楽しみは、「ラム酒を飲みながら友人と語り合うこと」とは、ガイド氏の説明であったから、キューバ人のラム酒への思い入れは特別なものがあるようである。
 さて、トロピカル・ショーのことである。ツルッ禿の黒人男性の「レディース・エンド・ジェントルメェェーン!!」で始まったショーは、一言で云えば、日本の宝塚のレビューのようなものである。もっとも、こちらは1939年オープンというから、こちらの方が本場である。比べるものとしては、ブラジルのサンバ・ショーが適当である。なにせブラジルの人口比率とキューバはよく似ていて(白人25%、黒人25%、混血50%)、歴史も似ているからである。踊りの様式も似ているのであった。ブラジルはサンバで、キューバはサルサという違いくらいである。演奏された音楽は、日本の60年代に流行った華麗なカリビアン・ミュージックである。ルンバやマンボ、チャチャチャが演奏され歌われる。まるで、60年代にタイムトリップしたような気分になる。キューバでは、このキャバレーが最も盛んであった革命前の50年代の音楽がそのまま演奏されているようであった。
 しかし、同じTバックの踊り子たちのお尻大きさは、ブラジルとは大違いであった。ブラジルでは、混血の2㍍近い大女がでっかい尻(ブラジルの美人の基準はお尻である)を振っていたが、キューバの踊り子たちは中肉中背で鍛えられた肉体のせいか、全員が小ぶりなお尻だったのである。「なんだ、この違いは」と思ってしまった。食糧事情の違いなのか、と思う程である。確かに、キューバ人は日本人みたいに飽食ではない。食糧の乏しい国ではある。それに踊り子たちは皆、若い娘たちである。日本のキャバレーでイメージする、退廃的な色気など微塵もないのである。途中で、踊り子が客席に入り込んでお客を誘って踊り出す。私も引っ張り出されて一緒に踊らされたが、早々にご辞退申し上げた。とても付いていけない。こうして2時間近くのショーは終わって、ホテルに引き返したのであった。

あたふたキューバ訪問記3

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あたふたキューバ訪問記3
(1月9日午後、革命博物館の広場)
 昼食を摂って一休みし、今度は地図を頼りに旧市街地を歩いてみることにした。目標は、「革命博物館」である。馬車で外周を廻った時、ガラスケースに囲まれた「グランマ号(おばぁちゃん号)」の姿が垣間見られたから、それを間近に見ようというのである。
 旧市街のメインストリート(オピスポ通り)を歩くと、ヨーロッパからの観光客で溢れていた。それも、腹の出たメタボな老人がやたらと目に付いた。もっとも、私たちもその老人の一部なのであるが。キューバは、今が一番の観光シーズンである。寒いヨーロッパからの観光客が一番多いのだ。
 その観光客のチップを目当てに、派手な衣装と花飾りを頭に付けた老女たちが街角に座っている。写真を撮らせてチップを貰うのだ。チップを貰うと、頬にキスをするらしい。頬にキスマークをつけた観光客が見受けられたのであった。中には、飼い犬に衣装を着せて自転車の荷台に乗せている人がいる。カメラを向けると、チップを寄こせと追ってくるのだ。これも、チップ目当てに考え出された手口である。色々と考えるものである。
 キューバには物乞いもいる。片足のない男が、歩道に寝そべって物乞いをしていた。私の目からみると、日本のホームレスより身綺麗な物乞いにみえた。なにせキューバは、配給制度で最低限の食糧は安く手に入るし、80%の国民は家賃を払わずに住居を得ている国であるからだ。1人、頻繁に観光客に手を差し出す老人がいた。その手を口にもってきて、口を「パクパク」するのだ。つまり、「食べるためにチップをくれ」ということらしい。避けて通ると、しつこく追っかけてくることはない。
U2スパイ偵察機を打ち落としたミサイル
(キューバに侵入したアメリカのスパイ偵察機U2を撃墜したミサイル)

 30分程ブラブラしている内に、革命博物館に着いた。ガイドには、「現在、建物の修復中なので中には入れない」と言われていたので、博物館の裏手の広場にあるグランマ号(1956年12月、モンカダ兵営襲撃事件で逮捕・国外追放されたカストロら82名が、本格的な反乱・ゲリラ戦のために、亡命先のメキシコからキューバにグランマ号で上陸)に近づいた。周りを重々しく兵士が護衛している。ところがよく見ると、観光客が広場に入っているではないか。そこで、広場の入口を探した。入口には、入場料を取る受付が備え作られていた。入場料を払えば中に入れるのである。写真もOKであった。ところが、中に入るとすぐに兵士に呼び止められた。何事かと思ったら、「手荷物を預けて入れ」ということであった。
 ということで、とても82名は乗れそうにないグランマ号を撮影したり、広場に飾ってある革命に使われたセツナやジープなどを見て廻ったのであった。
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Author:きょうの目
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