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あたふたキューバ訪問記9

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あたふたキューバ訪問記9
(1月12日、再び旧市街で)
 本日は、終日フリータイムである。つまり、何の予定もない。ホテルは旧市街の中心にある。歩いて行く範囲に乗り出すことにした。最初に行ったのは、旧市街地のはずれにある美術館である。ここには、キューバの現代アートが展示されていた。そこを、じっくり観て周ったのだ。数々の油絵は見ごたえがあったが、前衛アートの抽象画や造型には、自分の能力の限界を感じてしまう。よく理解できないのだ。ただ、ここにもキューバ独立の父ホセ・マルティンを題材にした絵が幾つもあったのが印象的であった。ホセ・マルティンがいかに愛されているかが判ったのである。
支倉常長の像

 旧市街の沿革を歩いて、支倉常長の立像を見つけた。これが、仙台の私立高校が寄贈した像であることが看板によって知った。支倉は、江戸の初期に伊達政宗の命令でバチカンに行く途中に、この地を通って行ったのだ。何とも不思議なことがあったものだ。支倉が帰国して正宗のもとに戻った時は、日本はキリスト教を禁教していた。支倉は、棄教せざるを得なかった。像を見ていて、支倉のその心境になぜか思いを馳せてしまったのである。
 旧市街の中の小さな市場を覘いてみた。驚いたのは、イヤリングを買った女性が、抱えていた子供の耳に付けるため、その場で、嫌がって泣く子供の耳に穴を開け始めたことだ。なんとも乱暴なことであったが、誰も注意する人はいなかった。私が顔をしかめていると、ウンウンとうなずく人がいるだけだった。
 こうして、ブラブラそぞろ歩いていた。時たま、アフリカ音楽をかき鳴らしながら踊り歩く一団に遭遇した。シャッターを向ける観光客からチップを貰いながら、行進しているのである。それを、若い女性警官が静かに見守っている。なんとも華やかだが、安全な気配も漂っているのであった。こんな処が、昨年のインドとは違って好ましかった。
 ということで、キューバの時間は終わり。翌日には、帰国の途についたのでありました。(終わり)

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あたふたキューバ訪問記8

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あたふたキューバ訪問記8
(1月11日、ヘミングウェイの愛した酒場)
 ヘミングウェイの件を書いている最中、BSテレビで「ヘミングウェイとキューバ」という番組が上映された。女優の杏が案内役となって、ヘミングウェイゆかりの地を巡っていた。その中で、ヘミングウェイがFBIの監視下にあったことが、アメリカの公文書公開により明らかになったことを報じていた。ヘミングウェイ自身は、小説家として成功し裕福な生活をしていたが、当時のアメリカは戦前の大恐慌を迎えて不況のどん底に落ちていた。そんな中、底辺の人々に目を向けたのがヘミングウェイで、FBIは彼を危険視したのだ。閉塞したアメリカに嫌気を差したヘミングウェイは、自由を求めて目と鼻の先のキューバ(アメリカの属国であった)に移り住んだ。もちろん、キューバでもFBIの監視下に置かれていたのであるが。1961年にアメリカに戻っていたヘミングウェイは、銃で自殺してしまう。自殺の理由はいまだに謎とされている。番組では、その謎とFBIの監視をそれとなく結びつけていたのであった。
店で演奏する人たち
店で演奏する人たち
 さて、ヘミングウェイゆかりの地巡りは、旧市街地へと移る。1つは、私たちが泊っているアンボスムンドスホテル(5階にヘミングウェイの常部屋があり、博物館になっている)だが、ここはパスしてヘミングウェイ行きつけの酒場に行く。最初は、モヒート(ミント入りラム酒)を飲ませるボデギータという安酒場である。「モヒートを飲むならボデギータ」という、ヘミングウェイのサイン入りの色紙が飾られている店であった。私たちが入ると、店内は観光客で一杯で座ることもできなかった。店の中ではラテン音楽の歌と生演奏があり、その脇で私たちはモヒートを立ち飲みである。ミント味のジュース(ストローで飲む)のようであったが、なかみはラム酒である。体が、ポッと温かくなってきた。
 ところで、旧市街には至る所にレストランや酒場がある。その何処でも、ラテン音楽の歌と生演奏があるのだ。旧市街は、昼間から歌と音楽に満ち溢れていた。だから、そぞろ歩くだけでも楽しい気分になってしまうのである。次に行ったのは、フロリディータというバーである。ここも観光客で一杯だったが、何とか座ることができた。このバーには、酔って大満足な笑みを浮かべたヘミングウェイ胸像がある。客たちは、この胸像に腕を廻して記念写真を撮っていた。このバーで出されていたのがダイキリである。ダイキリとはラム酒に雪みたいに削った氷を入れたもので、キンキンに冷やされたカクテルみたいなもの。急いで飲むと、頭が痛くなる。ここでも勿論、生演奏が行われていた。さすがに昼間からの2杯目に、酔いが回ってきた。ガイドは上機嫌で、手拍子足拍子でラテンの歌を口づさんでいるではないか。なんとも陽気な民族である。
 ということで、ヘミングウェイ巡りは終了。酔った足デホテルに戻ったのである。
 

あたふたキューバ訪問記7

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あたふたキューバ訪問記7
(1月11日、ヘミングウェイ詣で)
 今日は、ヘミングウェイゆかりの地巡りである。最初に出向いたのは、旧市街から車で20分程の小高い丘の上。ヘミングウェイが暮らしていた家がある。ここは、今ではヘミングウェイ博物館となっている。鬱蒼と茂った南国の樹木に囲まれている。これらの木は、ヘミングウェイが自分で集めてきたのだそうだ。
 もともとこの家は「誰がために鐘が鳴る」の印税で購入したもので、ここで20年間、海と釣りをテーマにした小説を書きあげてきたのだ。もっとも欝病に罹っていたらしく、晩年には作品を書けなくて苦しんでいたらしい。そのせいかどうか、毎晩のように旧市街に車で出かけ、酒を飲んで入り浸っていたようである。1960年にアメリカに帰国したヘミングウェイだったが、翌年に急死している。2度とこの家に戻ることはなかった。遺言でこの家はキューバ政府のものとなり、博物館となったのだ。
ヘミングウェイの書斎の一つ
(ヘミングウェイの書斎の一つ
 ここにも、ヨーロッパ人の観光客が集まっていた。順番に部屋の中を覗くと、確かにヘミングウェイが暮らしていたことを感じさせる様々なものが、当時のままに残されていた。立ったまま打った(腰が悪かった)というタイプライターや、800冊の蔵書・飲み終わった酒瓶もそのままであった。異様だったのは、アフリカに狩りに行って仕留めた様々な草食獣の、首から上の剥製が各室に所狭しと飾られていたことであった。一方で、猫50匹を飼い愛犬のブラッキー(墓が庭にあった)もいて、動物好きを思わせるヘミングウェイだったが、日本人の感覚からは剥製の多さには辟易させられた。
 この博物館の広大な敷地の中には、1933年にニューヨークで建造された「ピラール号」が引き上げられ、保管されていた。この船は30年近く、ヘミングウェイとともに近くの海に出ていたのだ。
 次に出かけたのは、この「ピラール号」が繋がれていた桟橋があるコヒマルという漁村である。そこには、漁師たちがお金を出し合って建てたというヘミングウェイの胸像があった。漁師たちは、ヘミングウェイに相応の報酬をもらって彼の釣りの手伝いをしていたのだ。私たちが胸像に近づくと、付近の老人が「ジャポネか」と声をかけ、ギターを爪弾きはじめた。懐かしい60年代(日本での)の曲が流れ出し、チップを渡すことに。彼らは、観光客が来るたびに、こうして演奏をしてチップをもらっているのだそうだ。
 コヒマルは、「老人と海」の舞台ともなった場所である。港に面して小さな要塞があり、その向こうには大西洋というかカリブ海というかが広がっていて、何とも気持のいい眺めであった。
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きょうの目

Author:きょうの目
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